今日、4月2日は、母方の祖母の命日です。
その日は朝から雨で、祖母の住んでいた南九州の小さな町へ向かう満開の桜並木の道は、それはそれは美しい景色でした。
まるで、夢の景色の中を走り抜けているような気持ちで祖母の元へ急ぎながら、「ああ、私はこの景色を、きっと一生忘れないだろうな」と思いましたっけ。
かつて、田舎の小さな町で教師をしていた小柄なおばあちゃんの通夜と葬儀は、驚くほどたくさんの方々がお別れに来てくださり、とても盛大なものでした。
祖母が亡くなったという連絡があったのは、日曜日の朝で、まず母を乗せて福岡から車を飛ばして宮崎県に向かい、いったん母だけを置いて、とんぼ返りで自宅に戻り、こまごまとした用意を整えて、再び宮崎まで車を走らせました。
片道250キロ弱の道のりを、半日のうちに2往復してもへっちゃらだったなんて、私もまだ若さいっぱいの頃だったこともありますが、非常事態には思わぬ力が出るものです。
不慮の事態が起きたときや、心配事があるときには、BeBeはとたんに食べ物をいっさい受けつけなくなってしまう。 逆に私はというと、「とりあえず、何でもいいからしっかりと口に入れて、気をたしかに持って頑張らなくちゃ‼」と、いきなり気合スイッチが入るんですよ。
人は、お腹が空いている時と、お金がない時が、最も正常な判断力を鈍らせる時だと私は思っているんです。
だから、大変なことがあったときほど、しっかりと栄養補給して、気持ちをシャンとさせる必要がある。 これ、とても大事なことだと思うのだけど、こういう考え方は、祖母の血を受け継いでいるのかもしれません。
旧家の生まれの祖母は、とても厳しい教育を受けた人らしく、孫である私たち姉妹に対しても、なかなかに厳しかったです。
おそらく彼女は、自分の生まれ育った家に対しての誇りを持っていて、古い家の制度やしきたりを大切に思っていたのでしょうね。
人の立場を尊重すること、人からどのように見られるかということ、そのために、自らの姿勢を正して生きるということを、とても大事に考えていた人のように思います。 彼女自身が、そのような躾を受けて育てられたのでしょう。
明治の時代に、町の町長をしていた私たち姉妹の曾祖父は、当時の人には珍しく、「女子にも立派な教育と教養を身に着けることが必要」という考えの人であったらしく、娘にもしっかりと教育を受けさせました。
なので、祖母は嫁入り道具の他に教員の資格まで持って嫁ぎ、やがてそれが、病気で早世した夫に代わり、女手一つで子供たちを育てるための、大きな助けとなったわけです。
好奇心旺盛で、何を尋ねても彼女が答えられなかったことはないと母が言っていたくらい、あらゆることに豊富な知識を持ち合わせていた人でしたが、いくつになっても学ぶ姿勢を忘れない、何でもこなせてしまうような万能な女性でした。
数百人の方がお別れに駆けつけてくださった、祖母の通夜と翌日の葬儀の日には、強い春の雨が降り続けました。
祖母を乗せた黒い車が、最後の別れの長いクラクションを鳴らしたとき、雨は満開の桜を散らさんばかりに、ひときわ激しく降りました。
それにしても、生きる力を身に着けておくことが、女性にとって、どれほど大事なことかということを、年齢を重ねるにつれ、しみじみと感じます。
おそらく、明治の時代には大半の人の考えであったろう、「嫁いで子供を産み育てることだけが女の役割」という方針で育てられていたら、祖母の人生は大きく変わっていたと思う。
あの田舎の小さな町で、あれほどの人が最後のお別れに駆けつけてくれるということもなかったと思う。
明治の時代に、自分の娘がしっかりと生きていけるように力をつけさせた、私たち姉妹の曽祖父は、なかなかに偉大な人だったんだなあ。
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