もともと自宅でのテレワークスタイルだったうえ、極端に外出を控えるようになってから、すでに1年が経ちました。
ところが、不思議なことに、「この人に会いたい‼」と願った人には、なぜか簡単に会えることになってしまう。
そのうえ、自分が尊敬する人とか、大好きな人、素敵な人とのご縁は、しっかりとつながっていて、それどころか、より深まっている気がする。
更に不思議なことに、こんな状況に身を置いているのに、とても素晴らしい方たちとの、新しいご縁は広がり続けているのです。
すごい、なんて有難いことなんだろう・・・と、しみじみ感じます。
朝、玄関の掃除をしたときや、門扉のそばのポストに郵便物を取りに出たついでに、私はいつも、庭先に生えた雑草の目立つものを、さっと抜くようにしているのですね。
こんなちょっとの手間が、大きな手間を省くので。
雑草・・・というのは、あくまで人間の都合。 本当は全てが、可愛らしい「野草」ですよね。
せっかく芽を出したところを、こちらの勝手で抜き取ってしまうことに、私はいつも小さな罪悪感を持つのです。
この草には、小さなつぼみがあったので、引き抜いたそのままを、水をはった盃に入れて飾っておいたら、翌朝には、まるで恩返しのように、可愛らしい黄色の花が開いていました。
かつてお茶のお稽古に通っていた頃、あまりの上達の遅さに、私はつくづく、茶の湯というものにも、適性や才能が必要であることを実感しました。
茶道を習う方の中には、お抹茶とお菓子が食べられるから続けられたという人もいらっしゃるのだけども、私の場合は、ただ淡々と茶を淹れる、茶をいただくという所作を、自然な一連の流れとして身につけるコツというものを、なかなか体得できず、面白さや続ける意味を見いだせなかったのです。
ですが、「茶花」の世界だけはたまらなく好きで、茶花を極めたいとすら、本気で思っていました。
「茶花」というのは、お茶席に飾るお花のことなんですが、千利休は、「花は野にあるように」と、自然の中にあるがままに草花を配することが大事だと言いました。
私は茶花に、簡素でありながら、その中に広がる無限の自然感を感じて、たまらなく魅了されるのです。
それにしても、「花は野にあるように」生けるということは、本当に難しい。
だって、野にあったすっかりそのままを盃に入れたのに、ちっとも野にあるように見えないのですもん(涙)
私は、常に自分が身を置く場所に、「花とともに過ごしたい」と願う気持ちがあって、常に花を絶やさない暮らしに憧れています。
これは今後一生の、自分の生活習慣にしたいと思っていることです。 精進したいものです。
ところで・・・。
茶道に華道、そして書道。 それから、柔道や剣道、弓道などの武道においても、学び極めるものとして、『道』のつくものにすべて共通していること、それが、「心を磨く」ことである気がします。
技を競うために鍛錬することではなく、心を豊かにし、己を磨くことに本来の目的を置くもの。
そして、その「道」の中には、それぞれの哲学があるというふうに、私は思っています。
ちなみに、「道」がつくものの中では、私は、茶道、華道、書道、画道、そして実は合気道が、ほんの少しだけの心得がございますのです。
しかし、どれも極めるなんてとんでもなくて、本でいうなら入門編の「もくじ」のページをめくったあたりにしか到達しておりませんのです。
本当に、どれも中途半端でほんの少しかじっただけなのですよ(恥) なにひとつ、自分のものにできていない。
自分の人生の中で、ずっとそのことが、心のどこかに小さくひっかかっていました。
後悔とか、うしろめたさという感情とは少し違って、あえて言うなら中途半端さがもたらすフラストレーションのような気持ちです。
だから、いずれ年をとったらまたやりたい。 ずっとそう思い続けてきて、ある時ふと、気づいたわけです。
「あたし、もう、十分にトシとってるやん‼」(気づくの遅っ‼)
でね、つくづく自分が恵まれていると感じるのは、ちょうどそんな時、身近で親しくしている友人の中に、ちゃ~んとお習字の先生がいてくれたことです。
そんな有難いご縁のおかげで、まずは3年前に硬筆からリスタートをして、その2年後にはいよいよ、ずっと渋っていた毛筆のお稽古を再開しました。
段を取ることを当初の目標としていたのですが、このままコツコツと続けることができれば・・・目標は高く持って、いつか師範まで取ってみたい。 今はそれを目指しています。
ある時、友人でもある、書道の師匠の筆の運びの美しさを目の当たりにしたときに、「なんて柔らかに流れるように字が書けるのだろう…‼」と、思わずため息が出ました。
私と違って、書の道を長年コツコツと歩み続けてきた彼女のことを、心からリスペクトしたのでした。
字を書き上げたあと、流れるように筆をおいた、あまりに優雅な仕草に、「残心」という言葉が浮かんだのでした。
「残心(ざんしん)」とは、すべての「道」に共通することで、技の最期まで心を緩めず、余韻を残す美学・・・とでも言うのでしょうか。
武道における残心とは、技をきめたあとも、最後の最後まで油断をせず、美しい礼にて仕舞うという感じ、これをとても大切にしています。
茶道における残心について、千利休は、道歌(教訓を短歌にしたもの)で、このように伝えています。
何にても 置き付けかへる 手離れは 恋しき人に わかるると知れ
(茶道具から手を離す時は、恋しい人と別れる時のような余韻を持たせよ)
お嬢様がた、良くお聞きなさいまし。
あなたの愛する殿方の前で、身の回りの物をあつかう際には、是非、利休のこの、「残心」の教えを思い出してくださいまし。
茶道の所作の中で、何に一番、美を感じるかというと、もしかして、この「残心」であるかもしれません。
茶碗から手を離すとき、茶筅(ちゃせん)や柄杓(ひしゃく)から手を離す時には、恋しいお方との離れがたい気持ちを表す気持ちで、心をものに残しつつ手を離す。
この仕草というのは、客観的にみて、ゆるやかでしとやかで、それはそれは美しいのです。
試しにやってみてくださいませ。
あ、別に、お抹茶を点ててみせろと言っているわけではないのです。
あなたが手に持っていたスタバのカップから、手を離す時。
あなたがスマホをテーブルの上に置いて、手を離す時。
”恋しき人に わかるるように” 優しく、しっとりとした余韻を残してみせるのでございます。
あなたの魅力が数倍あがること、間違いなしでございます♡
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