最近ふと気づいたことなのだけど、人って年を重ねるとともに、何かに「期待」することの数というのは、どんどん減ってゆくものなのですねえ。
自分の心の中に自然と湧き上がってくる、さまざまなことに「期待する気持ち」というものは、年齢と反比例するものなのだと実感しています。
子供の頃は、大人になったら、いろんなことができるようになるのだろうと思っていました。
自分の未来に対しても、自分の周りの環境にも、自分と関わる人たちに対しても、昔は勝手に、たくさんの期待感を持っていたような気がします。
ところが大人になると、自分の力量もだんだんわかってくるし、(諦めも含めて)自分の身の丈というものもわかってくるものです。
さらに、他人様が自分に対して、何かやってくれるだろうと期待することなんてとんでもないことで、そもそも他人様に期待をすること自体、おこがましいことなのだということを知れるようになる。
世の中を知れば、おのずと身のほどをわきまえ、自分にとっての分相応のものをそこそこ得られるなら、それでもう、十分に有難いことなのだということがよくわかってくるもので、おのれの可能性をはるかに超えるようなことには、期待などしなくなるものです。
ただ、そうして、年齢を重ねて行くうち、期待することが減る代わりに、「有難い」と思うことは、どんどん増える気がするのです。
有難いという言葉は、その字の通り、ある事が難しいということ。
当たり前ではないことが起きたという、自分にとってはもったいないような尊いことです。
期待することが減った分、感謝することが増えた自分の人生は、これこそ有難いことなのかも知れません。
前回、今年の一月に、家族で久しぶりに宮崎に旅行に出かけたというお話をいたしましたけれど、宮崎神宮にお参りした際、すぐ近くの「平和台公園」にも行ってまいりました。
ここは、宮崎市の高台にある、緑に囲まれた広々とした公園です。 私はこの公園のすぐ近くで生まれました。
歩き始めた頃、毎日のように、父が夕方、この公園に私を連れてきて、芝生で遊ばせてくれていたのだそうで、ここはいわば、私が二足歩行を始めた頃の訓練の場であったわけです。
八紘一宇の塔
塔に真っ直ぐに向かう道の手前に置いてある、平らな石の台の上に立って手を叩くと、塔に反響して、とても不思議な音が鳴ります。
八紘一宇、という言葉は、大東和戦争の政治的スローガンとして掲げられたことで、誤解して捉えられていることが多い気がするのだけど・・・。
本来は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすという意味の、世界平和の理想を伝える、とてもスケールの大きな愛に溢れた言葉です。
八つの方位は、すなわち全世界を示しますが、これは私にとっては、全方位のエネルギーを整えることを大切にする、風水の学びにもつながる意味を持った、ちょっと特別な言葉でもあったりします。
この塔の前の広々とした芝生の上で、よちよちと歩いていたというその頃の記憶は、私には全く残っていないのだけど、まだ言葉もろくに話せない頃の幼い私に付き合って、遊んでくれた父には感謝しかない。
この当時、まだ若かった父が、私に期待していたことはきっと、とってもたくさんあったのだろうな。
でも今は、私に対して期待してくれていることなんて、ほとんど何もなかろうと思うのです。
すまん、父よ。
こんなに不甲斐ない娘で、とても申し訳なく思うけど・・・。
でも、当時の父の期待は何も叶わず、今はもう、何を期待していたかも思い出すことすらなくっても、そのぶん、ほんの少しだけでも、感謝してくれてるようなことがあったらいいな、なんて思ったりするのです。
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