昔し昔しのお話しです。 ある国に、四人の妻を持つ王様がいました。
王の一番のお気に入りは、四番目の妻でした。
第四夫人は、若くて、それはそれは美しい女性でした。 王は彼女のために贅を尽くして、彼女を着飾るための装飾品や豪華な衣裳を山ほど買い与えました。 そして美しい彼女を、いつも自分の側に置いて愛でました。
王はまた、三番目の妻のことも大好きでした。 彼女はとても良い家柄の出身で、彼女自身もとても社交的な性格だったので、特に自慢の妻でした。
なにしろこの夫人は、王がとても苦労して、ようやく手に入れた女性でした。 なので王はどこに行くにも彼女を連れてまわり、みんなに見せびらかしました。 そして何より、彼女を失うことをとても恐れていました。
万が一、彼女が逃げ出したり、あるいは、さらわれたりしないように、常に見張もつけました。
さて、王の第二夫人は、とても聡明で忍耐強い女性でした。
ですから王は、どんなことでもこの二番目の妻に相談していました。 彼女はいつでも親身に王の話に耳を傾け、そして、幾度となく王の窮地を救いました。
王にとって第二夫人は、最も信頼できる特別な存在でした。
では第一夫人はどうでしょう。
彼女は王にとっての一番最初の妻で、これまで一番長いあいだ王に寄り添い続けてきた存在です。 しかし王は昔から、この夫人のことは、ほとんど顧みませんでした。
彼女は王を深く愛しており、国のためにも尽くしていました。 それなのに王は、第一夫人のことを気にかけることすらありませんでした。
ある時、王は重い病で床に伏し、やがて自分の命がこの先、そう長くないであろうことを悟りました。
その時に王は「あの世にたった一人で旅立つのはとても寂しい」と思いました。 それで「誰かについてきてほしい」と望んだのです。
そこで、王はまず最初に、一番可愛がっていた第四夫人に頼みます。
第四夫人は悲しい顔をして、「これまでしていただいたことには感謝しておりますが、あなたと一緒に死ぬことはできません」と言いました。
そこで王は、彼が最も自慢している第三夫人に頼みました。 すると彼女は「私があなたと一緒に死ぬなんて、ありえないわ。 それに、私のことを欲しがってる人は他にもたくさんいるのよ。」と冷たく答えました。
仕方なく、王は誰よりも信頼している第二夫人に頼んでみました。
すると彼女は、「私はこれまで、ずっとあなたのことを支えてきたけれど、私にできるのはお墓まで見送ることだけです。」と言って涙を流しました。
王は絶望しました。 そこでようやく、自分にはあと一人、妻がいたことを思い出しました。
王が長い間、その存在すら気にもかけなかった第一夫人です。
第一夫人は、王の言葉に迷うことなく答えました。 「私はいつもどんな時でも、あなたと共にあります。 私が一緒に参りましょう。」
王は、その答えに心を打たれ、深い後悔の涙を流しました。
「ああ、私は何故もっと元気なうちに、あなたことを大切にしなかったのだろう」と。
これは、お釈迦さまが弟子たちに説いたとされるお話しで、阿含経(あごんきょう)という初期仏教の経典の中に出てくる、「四婦の比喩(しふのひゆ)」と言われる寓話です。
人生における様々な要素と、死に際して、何が本当に自分に寄り添うのかを説いた教えで、実は、このお話の中の「四人の妻」とは、それぞれ我々人間にとっての「大切なもの」を喩えています。
四番目の夫人は「自分の肉体」 どれだけ着飾っても、お金をかけてきれいに見せても、死ぬときには置いていくものです。
三番目の夫人は「地位や名誉や財」 どれほど苦労して手に入れ、どれだけ自慢したところで、ずっと自分の手元にあり続けるものではありません。 ましてや死ぬ時に、あの世に持っていけるものでもありません。
二番目の夫人は、「家族や友人」 心から信頼できる大切な家族や友人であっても、あの世に行く時には離れなければなりません。
さて、それでは第一夫人は何をさしているのでしょうか。
それは「自分の魂」です。
生まれた時からずっと、自分と共にあるものだけども、人は、普段はその存在にあえて目を向けることがなく、誰もが自分の魂の声には耳を傾けなかったり、後回しにしがちです。
子供の頃に、このお話を聞かせてくれたのは、私の父でした。
幼かった私は、その時、「へぇ〜なるほど、そっか。 人間って、自分の魂は、あるのが当たり前だと思っているから、大切に思わないし、自分の魂には優しくしてあげないものなんだな〜」と思いました。
だけど、大人になるにつれ、何かの折にこの話をふと思い出すたび、この意味の深さに感じ入ります。
人は、この世を去るときに、自分の魂に対して自分がどう接してきたのかについて、思い知らされることになるものなのかもしれません。
魂を大切にしてあげること、魂の声にしっかりと耳を傾けること。
人って、意外にそんな大事なことを、どれほど蔑ろにしていることか。
今年は年明けから、人生で一番辛くて悲しいと思える出来事に見舞われました。 そのうえさらに、やたらと心を悩ませる騒動に巻き込まれたりと、正直、穏やかではない時間も多々ありました。
けれど、不幸中の幸いと言いましょうか・・・。
私の周りには、身近にやってくる「疫病神」のような存在を相殺して余りあるほど、幸せの神様のような素敵な方々がいてくださるのですよ。 そのおかげで、同じくらいたくさんの幸せを感じることができました。
そんな激動の一年の中で、ふと考えたことがあります。
あのお話では「人は自分の魂を気遣わない」と言いますが、世の中には「私は!私が!」と、自分のことばかり主張する、驚くほどわがままな人もいますよね。
周囲の状況には一切配慮せず、自分の感情を最優先してちょうだい❗️と、まるで癇癪を起こす子供のように振る舞う人っています。
そんな人たちは一見、自分の魂を、何よりも優先しているじゃあないか、と。
そこで気づいたのです。 お釈迦様がおっしゃる「自分の魂を気にかける」という意味には、ただ甘やかすだけでなく、「魂を磨き上げる」という意味も含まれているのではないか、と。
ただ自分の欲を押し通すのは、魂を大切にしているのではなく、むしろ自分の魂を、自分勝手な理屈で汚し、醜くしているだけではないのでしょうか。
本当の「自分の魂に丁寧に接する」という意味は、その魂が死後の旅路で恥をかかないよう、気高く美しく整え、鍛えてあげる、ということですよね。
隠徳を積み、我欲を手放し、たとえ不条理な場面でも毅然と振る舞えること。 そして同じく、他者の尊厳も傷つけないこと。
そんな風に己を律し、魂を正しく磨き続けることこそが、自分という存在を本当に大切にするということではないだろうかと、最近改めて強く感じています。
すっかり大人になった私は、これから、目に見えない「魂の気品」を、一生かけて丁寧に磨いていきたいな、と考えています。
この一生を終えるときにも私から離れず、ずっとついてきてくれる唯一の存在なのだから。
今年一年、本当にありがとうございました。 どうぞ皆様、お健やかに新しい年をお迎えくださいませ。
2026年が、皆様にとって笑顔にあふれた素晴らしい一年となりますよう、心よりお祈りいたします。
来年も、どうぞ妹のBeBeともども、何卒よろしくお願い申し上げます。
ミスターダンディが、今年も啓翁桜を届けてくださいました。
真冬に開く、可憐な桜の花と一緒に、新しい年を迎えることができる幸せ✨ ありがとうございます。
今日もご覧下さってありがとうございます。
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