私の祖母が亡くなった時。 南九州の、静かな田舎の小さな町に住んでいた、一人の小柄なおばあちゃんのために、何百人もの人がお別れに駆けつけてくれて、その通夜と葬儀は、驚くほど盛大なものでした。
あの時はもしかして、あの小さな町がてんやわんやだったのでは…と、後から思いおこしても、ちょっと信じられないくらいです(笑)
バルセロナ五輪にマラソンで出場し、他の選手に足を踏まれて転倒して、大きくロスタイムをつくりながらも、ゴール後に「こけちゃいました」と笑顔でコメントなさった、あの谷口浩美選手も、きっちりと喪服を着て、律儀に、祖母の通夜にも葬儀にも参列してくださったのでした。
あの時、私と妹のBeBeは、とにかく休む間もなく、ただひたすら裏方として忙しく働きながら、あれほどに多くの人達に慕われていた祖母の偉大さを、初めて知ったような気がしたのでした。
その時、お葬儀は、その人の生きざまの集大成なのだという気がしました。
祖母にお別れを言いに、わざわざ駆けつけてくださった本当にたくさんの方々には、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
ところで、最近、流行(?)している、いわゆる断捨離にはまっている方や、ミニマリストを提唱している方にとっては、もしかすると、このお葬儀自体も、不要な物というお考えの方がいらっしゃるかもしれません。
一昨日、私がお知り合いの方のお葬儀に参列してつくづく感じたのが、お葬儀というものは形式上、やっておかねばならないからとか、お金をかければ何か良いことがあるからとか、やらなければ故人が成仏できないからとか、そういう理屈って、むしろ後付けにすぎないものかも…ということでした。
形式上やるのが当然というものではなく、あくまで人として、この世で深い縁があって関わることになった方を弔うということは、自然で当たり前のことなのだということを、しみじみと感じたのです。
信仰している宗教を持たない
葬儀にかかるお金がもったいない
葬儀そのものの価値が理解できない
お葬式が「不要だ」、「無駄だ」とお思いになっている方にとっては、おそらく、ひとつはこのようなお考えもあってのことではないかと思います。
ただ、今生で特別な縁があって、親子なり、夫婦なり、親戚なり、友人なりの関係で関りがあったということは、この広い世界の中の出会いとして、奇跡的ともいえるものかもしれません。
大切な誰かの人生が終焉を迎えた時、悲しみの中にも、どうか安らかに旅立ってほしいと心から願う気持ちは、やはり人として、とても当たり前のことです。
お別れを受け入れがたい気持ちにいったん区切りをつけて、自分の気持ちを納得させるという意味で、お葬儀を行うことは、残された側の人達の、心の負担をやわらげてくれる、大切なセレモニーなのだという気がします。
例えるなら…。 人生で初めての海外旅行に、突然たった一人で出かけなければならない…。
今生の役割を終えて、旅立つ時のイメージは、私にとってはこんな感じです。
そして、身近な人達がお別れのセレモニーを行ってくれた意味合いというのが…。
未体験ゾーンにたった一人で足を踏み入れ、何とか知らない国の空港に到着したとき、おそるおそる、到着ゲートから外に出てみると、何と自分の名前が大きく書かれたプレートを高々と掲げた迎えの人が、笑顔で待っていてくれた。
「お葬儀を済ませたあと、ガイドが故人を迎えに来てくれる。」 私はこんな風にイメージしているのです。
妹のBeBeは以前、こんな風に例えていました。
お葬式をする時の宗派は、あの世に旅立つ時のタクシーの会社のような感じ。
どの宗派でお見送りをするかは、どの会社が、どんな車でお迎えに来てくれるかという感じのものよ。
お葬儀がなければ、どこからも、誰も迎えが来てくれないから、自分の力で歩いて行かなくちゃいけないの。
なるほど、信仰の光が導いてくれるという感覚ではなく、どうしても行かねばならない場所に、どのガイドが道案内してくれるのか、そういうイメージなんだな~と思いました。
「夢みたいな話し」ととらえる方もいらっしゃるかと思うけれど、信じる、信じないのことではなく、もちろん、これはあくまでも「イメージ」での話しなんですよ。
一昨日は、ご出棺まで立ち会わせていただいて、これまで、いつでもいるのが当たり前だった存在の人に、声をかけても、もう返事が返ってこないのだということの寂しさや悲しさを痛感しました。
そこに居て当たり前の人が、あたりまえに元気でいてくれること。
おはようと声をかけて、おはようとあたりまえに返事が返ってくること。
暑いね、汗が出るから動きたくないよ、なんていう、どうでもいいような会話を、当たり前に何気なく交わせるということの、幸せや有難さを身に染みて感じました。
お葬儀の意味は、残された家族や、所縁あってお別れに訪れた人に、生きていることのありがたさや喜びを、改めて強く感じさせてくれる、旅立つ人からの最後の贈り物を頂ける場であるのかもしれません。
参列させてもらえてよかった。 今生で、少しでも関わり合うことができたことに、ほんのささやかなお礼ができてよかった。
お葬儀は「穢れ」だから、できるだけ行かないほうが良いと、以前、ある神道系のスピリチュアリストさん(自称宮司さん)が語っておられて、私はものすごく、ものすご~く驚いたことがありました。
神道でのお葬儀のあとに、参列者に清めの塩が渡されるのは、人が亡くなって穢れているから清めなければならないという意味ではありません。
「穢れ」とは、すなわち「気枯れ」のことです。
穢れた故人の霊を祓うために清めるということではなく、「悲しみのネガティブなエネルギーが、連鎖して様々な邪気を呼ぶこと自体を祓い清める」という意味合いなのです。
無知な人の、単純でうがった解釈によって、こんな風に宗教はゆがめられてゆくことがあるのだなあと感じた出来事でした。
仏式では、死を穢れと解釈しませんが、もちろん、神道でいう穢れ自体も、亡くなった方を穢れとするものではけしてありません。
神道では、お葬式と言わずお祭りとしますが、鐘や太鼓で賑やかに故人を送る「お祭り」と、お焼香でなく、青々とした榊を捧げる儀式に、お別れの後には、何か心の雲が晴れたような気持にさせられるものですよ。
故人のご冥福を心よりお祈りいたします。
さて・・・あまりの暑さに食欲がないという父と母。 それぞれが食べてくれそうなものを別々に用意したら、さすがに自分の分まで作る元気がなくなってしまいました。
というわけで、私は究極の手抜き。 実はこれ、市販のグリーンカレーです。 うまうま(笑)
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