ウワサ話し

見えない心づかいの格を上げる

先日、年に一度のクラス会がありました。

私はクラス会執行部のメンバーなんだけど、毎年お店を決めて、お店の方と交渉をするのは、どういうわけか私の担当になっていて(笑)

女子校だったので、私以外の人はみんな、妻業、母親業がこれまでずっと忙しく、そんなせいでメンバーの中では私が一番、何かとわがままを聞いていただけるような親切なお店のオーナーさんとのお付き合いを、いくつか持っていたりします。

そういうこともあって、なんだか自然の流れで毎年、クラス会の開催場所は私が手配をすることになっていて、事前にお店の方とお料理のこと、プロジェクターやマイク等の機材のことなど、さまざま打ち合わせをするのが私の係になっているのです。

お店の手配が私なので、お店の場所と案内をクラス会のグループLINEに流すのも私の担当(笑)

でも、女子校出身のうえ、私たちの「年代あるある」なのかもしれないけど、LINE操作は「子供にきかないとわからない~」、とか、グループLINEには参加できても、HPを開いてマップをうまく出せないなんていう人も(いまだに)いたりするわけなんです(笑)

それで、普段のノリで、お店のURLのみをメッセージしておけばすべてOKというわけにはいかず、iPadproとiペンシルを活用して、お店の場所のわかりやすい経路マップの画像を作成、お店のHPとともにLINEに添付します。

逆に、お越しいただく恩師達は、そこそこご年配になられている方が多いんですが、やはりお仕事柄なのか、みなさんPCやスマホの操作には慣れていらっしゃる方が多いんです。

それでもメールでお店のHPをメールで送りつけるのはやはり失礼かと、自作でお店の入り口や目印となる建物などの写真を付けたマップを作り、手書きのカードを添えて事前に郵送しておきました。

カードは、以前、いろんなカードを集めている私のために、アメリカにお住いの方が送ってくださった、レース模様の細工が施された真っ白のカードが、封筒と一緒に薄紫の可愛い箱にセットされた素敵なもの。 大切な方のために贈るカードとして大切に使っているものにメッセージを書きました。

先生方から、地図がわかりやすかったことと、カードの美しさ、ついでに「楷書の字が丁寧で綺麗でしたよ!」というお褒めの言葉をいただいて、「ああ、ちょっとした時間と手間をかけてよかったなぁ♡」と嬉しくなったのでした。

昨年から、硬筆のお稽古を始めるきっかけになったのが、同じクラス会執行部メンバーの友人です。 彼女が私の師匠なの。 いつも丁寧に指導してくれて、友人にも感謝です♡

彼女は5才からお稽古をはじめて、すでに師範として活躍している今でも、自分自身のお稽古はちゃんと続けている努力の人です。 

継続ができることには、環境も必要だけど、何といっても努力です。 才能の中には「努力を続けられる」という力も含まれているのだなあと、彼女をみているとつくづく思います。

それにしても、今年のお店も、お料理も飲み物も、お店にいさせてもらえる時間すらも、オーナーシェフからのご配慮で、すっごく良くしていただけて、私ってホントに周りの方に恵まれて、いつもたくさんの方に助けていただけているのだと、有難い気持ちになります。

最近は地方の街の福岡でも、人気店だと予約の段階でお店のほうから滞在時間を区切られてしまうことが多く、特に飲み放題付きのコースだと、2時間~2時間半以内と、必ず時間が制限されるものなのに…。

ところで、クラス会などの集まりをお願いする時はもちろん、知っているお店に私が予約を入れてお食事に伺う場合は、私はお店の方にちょっとした手土産を持参することが多いのですが、後日、わざわざお店の方からお礼のメールをいただくことがあります。

人と関わることへのちょっとした気遣いに対して、お会いした時だけでなく、その後にもまた、ちょっとした時間を割いて応えてくれる…。 こんな心づかいで、人のつながりはさらに深まるのだと感じます。

 確かに心はだれにも見えないけれど
  心づかいは見えるのだ
 それは 人に対する積極的な行為だから

これは、詩人で作詞家の宮澤章二さんの、「行為の意味」という詩の中の言葉です。
この詩はさらに、

 あたたかい心が あたたかい行為になり
  やさしい思いが やさしい行為になるとき
  「心」も「思い」も、初めて美しく生きる
  それは 人が人として生きることだ

と続きます。

心は見えないけれど、心づかいは見えるもの・・・確かにその通りだと思います。

だからこそ、逆に心づかいが見えなければ、その人の心そのものが見えてしまうということがあるのだという気がします。

まだ記憶に新しい出来事ですが、先日、即位礼正殿の儀に参列した首相夫人のお衣装が物議を醸しておりました。

日本の最高の晴れの祝典といえるものですから、この日は東京から戻った翌日で、何かと雑務がたまっていたこともあり、私もあれこれと家の中を動き回りながら、この時ばかりは普段あまり観ないテレビを付けて、最高の瞬間を人生の記憶にとどめようと思っておりました♬

椅子におかけになった最前列のお席で、夫人のおみ足がしっかりと映し出された時には、私も「おやおやっ⁉」と驚きました。 ぎょっとした…というと大げさかもだけど、それに近いほど驚きましたよね。

ちなみに、いつも申し上げているように、このブログで、私はけして特定の人物を非難したり批判しないということを旗幟としています。 どなたかを否定したり、人を傷つけないということだけは守ろうと決めているのですね。

ただ、この件、どなたのどのことだと、はっきりと限定されてしまうことなので、あくまでも批判や非難が目的で申し上げているのではないことを、どうかご理解くださいね。

あの日、夫人がお召だった大きなお袖のデザインが印象的なお衣装ですが
私の個人的な意見では、けして「ミニ」と言われるほどは短いスカート丈ではないかと思うのです。

ただ、色留袖の御着物や、別の夫人がお召だったような、気品あふれるロングのドレスからすると、お膝が丸見えになる丈ですから、ずいぶんとドレスダウンした印象が強いものでした。

ごひいきのデザイナーさんの作品だそうですから、夫人のお好みも体系も、すべて把握なさったうえで、最高に素敵に見えるように作られたお洋服だったのだと思います。

一部の報道によると、以前、何かの会議の際にお召だったものと同じものだとか、夫人はおみ足に自信がおありなのだとか・・・いろんなご意見があるかと思いますが、私の個人的な意見としては…。

あのような特別な場に限らず、晴れの場に招かれた時の服装は、あくまで主役を立てるためのもの。 

あくまでも、その目的に沿った、その場の趣旨とその格式に合わせた、最適な服装を選ぶことが、とても重要なマナーだと思うのです。

確かに「デイドレス」というドレスコードから外れてはいないかもしれないし、ボリュームのあるお袖は、今の流行に乗ったものですし、ですが大勢の方が、「あの場面にはふさわしいとはいえない」という印象を持ったのだとするならば…。

自分を表現するために、自分に似合うもの、自分のお気に入りのもの着て出かけるのは、プライベートのパーティや、普段のお出かけの場合、あるいはご自身が主役の場だと思うんですね。

そういう意味で、適切な心づかいがなかった…と言わざるを得ないのではないかと言う気がします。

何しろ、これ以上のものはないと思えるほどの、この国においての最高格式の式典ですから、その場にあがるお立場として、ご自身の心づかいを、身なりという形にしてお見せになる場ではないかと思います。

本来、「心づかい」は、見てくださる方が心の目を開いて、その心づかいに気づいてくださるからこそ「見える」ものだと思うのです。

普段のさりげない心づかいこそ、相手にスルーされてしまうものや、誰の気にもとめられないのもがたくさんあると思います。

でも、その心づかいがあるからこそ、社会も、家庭の中でさえ、空気が円滑に流れているのだと思うのです。

たくさんの細やかな心づかいが、できるだけさりげなく、あまりに自然で気づかれないほどに、できる人って素敵だと思います。

そして、そんな見えない心づかいの格を上げられるように、日々努力したいなって思うのです。

今日もご覧くださり、本当にありがとうございます。


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